2013年10月20日日曜日

八重の桜に山川捨松登場

「八重の桜」で、山川捨松がついに日本に帰国!来週は大山・ポイズン反町と山川・水原希子のラブコメが楽しめそう。


しかし吉井を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた山川家では、これを即座に断ってしまう。家長の浩は当然猛反対だった。縁談の相手は、会津戦争で砲弾を会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長その人だというのである[1]。亡き妻の仇敵でもあり、心情として許せなかった。しかし大山も粘った。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は農商務卿の西郷従道を山川家に遣わして説得にあたらせた。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という浩の逃げ口上は、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」という従道の前では通じなかった。この従道が連日のように、しかも時には夜通しで説得にあたるうちに、大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化した。最終的に浩は「本人次第」という回答をするに至ったのである。
これを受けた捨松の答えがまたいかにも西洋的だった。「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案したのである。大山はもちろんこれに応じた。捨松ははじめ濃い薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、英語で話し始めるととたんに会話がはずんだ。大山は欧州仕込みのジェントルマンだった。2人には親子ほどの歳の開きがあったが[11]、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。この頃アリスに書いた手紙には捨松は、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意したのだった。(Wikipedia)
このドラマ顔負けのエピソードをどれだけドラマに仕立てるか楽しみ。

ちなみのこの夫婦、死ぬまで日常会話は英語・ドイツ語・フランス語だったそうですよ。

2013年9月2日月曜日

新島襄と八重の出会い

八重の桜もようやく新島襄が本格的に登場。やきもきしていた同志社大関係者も胸をなでおろしたことでしょう(笑)
槇村正直に援助を求めに行った際、どんな女性と結婚したいかと聞かれ、「夫が東を向けと言ったら、3年も東を向いているような女性は嫌です」と答える
後日八重の兄山本覚馬の家で偶然、井戸に腰をかけ裁縫をしている八重に目を止め、その危なげな姿に心引かれる
これらの逸話や、それ以前に偶然にゴードン邸で顔をあわせていたことなどの逸話は、八重の桜・第34回「帰ってきた男」で映像化されていました。

偶然会っていた、というのは大河ドラマではありがちな創作ですが、 偶然にゴードン邸で出会ってたというのは史実どおりです。

35回「襄のプロポーズ」では、新島襄のプロポーズが描かれていますが、実際にどのようにプロポーズをしたのかは不明なようで、このあたりはドラマの演出と思われます。

2013年8月11日日曜日

孔融が甄氏を曹丕が娶った件で曹操を皮肉った話

60 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2006/12/05(火) 22:56:15孔「武王は紂を倒したあと妲己を周公に賜りましたな」
曹「(あれ?そうだっけ?でも間違ってたら恥ずかしいな)あ、ああ、そうそう、そうだった。でも何に載ってたっけ?」
孔「(うわこいつ皮肉をマジに受け取ってる。妲己のことも知らないのかプゲラ)いや今ならそうだろうなって思って冗談言っただけですが何か?」

69 : 無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/12/07(木) 11:07:34そもそも、そのエピソードの出典と原文はどうなってるのよ?

73 : 無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2006/12/10(日) 03:49:33>>69
融乃ち操に書を与えて称すらく、「武王は紂を伐ち、妲己を以って周公に賜う」。
操、悟らず、後に何の経典に出ずるやと問う。対えて曰く、
「今を以って之を度るに、想うに当に然るべき耳」。 
http://www.logsoku.com/r/warhis/1152696486/

袁譚がまだ生きているにもかかわらず、曹丕が甄氏強奪して娶った件で、孔融が曹操をDisった逸話。

 史実の孔融はかなりの任侠肌の人物だったようだが、蒼天航路の影響で、頭の固い守旧派みたいな見方が広がっているようで少々残念。

2013年7月11日木曜日

「真田幸村」の最期

今日のヒストリアは感動巨編になっていなくて落ち着いて見られました。速射砲を落とさなければ……。幸村の最期は定説を踏まえての描かれ方でしたね。

幸村の最期に関しては今年の2月にこんなニュースが

 1615年の大坂夏の陣で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、
越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。

 同家の家臣と戦って討ち取られたと記されており、戦わずして首を差し出したとの定説を否定する新説だ。

 幸村は、大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込み、
「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。
覚書は、徳川方で参戦した、のちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、
福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。

 幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、のちの福井藩士、
西尾仁左衛門に首を差し出したとする逸話が知られており、
徳川幕府の史料にも残る。

 だが、覚書では、仁左衛門が、相手を幸村と知らないまま槍(やり)で戦い、討ち取ったと記述。
後に、家臣が陣中見舞いに来て、幸村の首とわかったとしている。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130225-00000041-yom-soci

少々怪しい話ですが、こんな話もあったということで保存しておきます。

2013年6月25日火曜日

明智光秀が裏切った理由



95: ラガマフィン(東京都) 2013/06/21(金) 18:04:46.41
>>75
俺が面白いなと思った珍説は家康と細川に騙されて
光秀が信長の命令で家康を撃討とうと本能寺襲ったって説

だから光秀は本能寺の後実は家康じゃなくて信長討った事に気がついて
頭が真っ白になって何もできなくなったって説かな

確かにあれだけ優秀な光秀なのに本能寺後の対応がお粗末すぎる

100: ジョフロイネコ(関東地方) 2013/06/21(金) 18:26:23.92
>>95
あながちバカに出来ん説だ。
ルイスフロイスの記録によると、光秀の家臣達は
「本能寺には家康が泊まっている。それを信長の命令で殺しに行く」
んだと思っていたらしい。

 フロイスは本能寺の時には安土城下にいたから、情報の精度としては低いが、
少なくともフロイスの情報ソースだった安土城下の町民達は
「信長は家康を殺すつもりで上洛させた。そうとも知らないで少人数で上洛した家康テラワロス」
と思っていたコトは確実。
コレを考慮すると『家康黒幕説』の可能性は低いと言わざるを得ない。

この説は面白いのですが、本能寺直後の家康のピンチを考えると可能性は低いでしょうね。

2013年6月19日水曜日

歴史秘話ヒストリアを見ていたら西郷四郎がいなかったことになっていてビックリした

もうビックリ。西郷四郎が出てくると思って待ってたのにいなかったことになってるんだもの。

再三、番組内で使われていた写真の全体像は、

ファイル:Saigō Tanomo and Saigō Shirō.jpg 

 これをトリミングしたもの。左側に座っている立派な青年が西郷四郎です。

悲劇を煽りたいのは分かりますが、いくらなんでもひどい(^^;

2013年6月18日火曜日

維新後の西郷頼母

戊辰戦争の最中、会津藩家老西郷頼母は妻子を含めた一族21人の自害という悲劇を迎えます。二男五女いた子供のうち、悲劇を免れたのは長男のみでした。 西郷頼母は維新後には赦免され宮司として第二の人生を歩むのですが、明治十二年に、せっかく残った長男には先立たれてしまいます。長男に先立たれた頼母は、甥っ子を養子として迎えます。

この養子として迎え入れられた少年が、後の講道館四天王の一人、姿三四郎のモデルといわれる西郷四郎その人でありました。 四郎は西郷頼母に柔術の手ほどきを受けていたそうです。頼母には会津に伝わる柔術の伝承者という顔もあったようですね。

Wikipedia 西郷頼母
Wikipedia 西郷四郎

2013年6月16日日曜日

前田利家死後に何があったのか2 ー利家とまつー

徳川家康による言いがかりに近い加賀征伐の動きに対して、前田家は交戦派と恭順派に真っ二つに分かれます。前田利長は最初は交戦派でしたが、豊臣家に救援を断られたこと、そして、母まつに説得されたことで、交戦を回避することを決断します。

この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常珠姫徳川秀忠娘、後の天徳院)を結婚させること、自身の隠居などを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長大野治長などが連座している。(wikipedia 前田利長
 母まつを江戸に人質として送ることに利長は躊躇しますが、まつの「母を思うばかりに家をつぶしてはならない。もしものときは家を守るために母を捨てよ」との叱咤を受けて、まつを江戸の秀忠の下に送る決意を固めます。

こうして、慶長5年(西暦1600年)、まつは徳川への人質第一号となり、彼女の政治的価値を理解した徳川家康は加賀征伐を取りやめます。以降14年間、まつは人質としての生活を強いられ、利長の死後まで加賀に帰ることは出来ませんでした。

2013年5月17日金曜日

前田利家死後に何があったのか1 ー利家とまつー

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/前田利長


だから追わなかった ー利家とまつー

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 12:44:03.97 ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:17:21.96 ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに