2013年6月16日日曜日

前田利家死後に何があったのか2 ー利家とまつー

徳川家康による言いがかりに近い加賀征伐の動きに対して、前田家は交戦派と恭順派に真っ二つに分かれます。前田利長は最初は交戦派でしたが、豊臣家に救援を断られたこと、そして、母まつに説得されたことで、交戦を回避することを決断します。

この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常珠姫徳川秀忠娘、後の天徳院)を結婚させること、自身の隠居などを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長大野治長などが連座している。(wikipedia 前田利長
 母まつを江戸に人質として送ることに利長は躊躇しますが、まつの「母を思うばかりに家をつぶしてはならない。もしものときは家を守るために母を捨てよ」との叱咤を受けて、まつを江戸の秀忠の下に送る決意を固めます。

こうして、慶長5年(西暦1600年)、まつは徳川への人質第一号となり、彼女の政治的価値を理解した徳川家康は加賀征伐を取りやめます。以降14年間、まつは人質としての生活を強いられ、利長の死後まで加賀に帰ることは出来ませんでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿