2013年6月25日火曜日

明智光秀が裏切った理由



95: ラガマフィン(東京都) 2013/06/21(金) 18:04:46.41
>>75
俺が面白いなと思った珍説は家康と細川に騙されて
光秀が信長の命令で家康を撃討とうと本能寺襲ったって説

だから光秀は本能寺の後実は家康じゃなくて信長討った事に気がついて
頭が真っ白になって何もできなくなったって説かな

確かにあれだけ優秀な光秀なのに本能寺後の対応がお粗末すぎる

100: ジョフロイネコ(関東地方) 2013/06/21(金) 18:26:23.92
>>95
あながちバカに出来ん説だ。
ルイスフロイスの記録によると、光秀の家臣達は
「本能寺には家康が泊まっている。それを信長の命令で殺しに行く」
んだと思っていたらしい。

 フロイスは本能寺の時には安土城下にいたから、情報の精度としては低いが、
少なくともフロイスの情報ソースだった安土城下の町民達は
「信長は家康を殺すつもりで上洛させた。そうとも知らないで少人数で上洛した家康テラワロス」
と思っていたコトは確実。
コレを考慮すると『家康黒幕説』の可能性は低いと言わざるを得ない。

この説は面白いのですが、本能寺直後の家康のピンチを考えると可能性は低いでしょうね。

2013年6月19日水曜日

歴史秘話ヒストリアを見ていたら西郷四郎がいなかったことになっていてビックリした

もうビックリ。西郷四郎が出てくると思って待ってたのにいなかったことになってるんだもの。

再三、番組内で使われていた写真の全体像は、

ファイル:Saigō Tanomo and Saigō Shirō.jpg 

 これをトリミングしたもの。左側に座っている立派な青年が西郷四郎です。

悲劇を煽りたいのは分かりますが、いくらなんでもひどい(^^;

2013年6月18日火曜日

維新後の西郷頼母

戊辰戦争の最中、会津藩家老西郷頼母は妻子を含めた一族21人の自害という悲劇を迎えます。二男五女いた子供のうち、悲劇を免れたのは長男のみでした。 西郷頼母は維新後には赦免され宮司として第二の人生を歩むのですが、明治十二年に、せっかく残った長男には先立たれてしまいます。長男に先立たれた頼母は、甥っ子を養子として迎えます。

この養子として迎え入れられた少年が、後の講道館四天王の一人、姿三四郎のモデルといわれる西郷四郎その人でありました。 四郎は西郷頼母に柔術の手ほどきを受けていたそうです。頼母には会津に伝わる柔術の伝承者という顔もあったようですね。

Wikipedia 西郷頼母
Wikipedia 西郷四郎

2013年6月16日日曜日

前田利家死後に何があったのか2 ー利家とまつー

徳川家康による言いがかりに近い加賀征伐の動きに対して、前田家は交戦派と恭順派に真っ二つに分かれます。前田利長は最初は交戦派でしたが、豊臣家に救援を断られたこと、そして、母まつに説得されたことで、交戦を回避することを決断します。

この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常珠姫徳川秀忠娘、後の天徳院)を結婚させること、自身の隠居などを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長大野治長などが連座している。(wikipedia 前田利長
 母まつを江戸に人質として送ることに利長は躊躇しますが、まつの「母を思うばかりに家をつぶしてはならない。もしものときは家を守るために母を捨てよ」との叱咤を受けて、まつを江戸の秀忠の下に送る決意を固めます。

こうして、慶長5年(西暦1600年)、まつは徳川への人質第一号となり、彼女の政治的価値を理解した徳川家康は加賀征伐を取りやめます。以降14年間、まつは人質としての生活を強いられ、利長の死後まで加賀に帰ることは出来ませんでした。