2013年5月17日金曜日

前田利家死後に何があったのか1 ー利家とまつー

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/前田利長




利家の死後、長男である前田利長があとを継ぎます。徳川方は、豊臣政権の最大の実力者であり、徳川家の最大のライバルとも言える前田家をいかに押さえるかに腐心します。


父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。慶長4年(1599年)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。
利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国した。翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。

この危機をまつは利長を導きながら切り抜けていきます。

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