2013年5月17日金曜日

前田利家死後に何があったのか1 ー利家とまつー

前田 利長(まえだ としなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝天正17年(1589年)頃に利長と改名する。若年より織田信長豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/前田利長


だから追わなかった ー利家とまつー

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 12:44:03.97 ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:17:21.96 ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに